羨望の眼差しって、「痛い」よねたまに。

 

先日、大学の卒業式がありました。

 

自宅が大学まで二駅なので、いつものように電車で向かうことにしました。

 

ホームに行くための階段を降りていたら、いつもの光景を目にするが、一瞬で何かに気づきました。

 

階段の正面にあるベンチに、見覚えのある若者が座っていました。私の視線を感じた彼は、スマホを向いていた視線を無意識に持ち上げ、ふと階段にいる私を見ました。

 

彼が視線を持ち上げる前に、私はその彼が誰なのかがわかった。私の心が「絶対(仮名)向井君だ!」と叫んだのがわかった。

 

向井君とは小学校と中学校が一緒だった。彼は、いわゆる問題児であった。が、それは彼の気性の激しさやあまりにも持て余している体力がそうさせていたのではないかと、今は思っています。彼は不良とつるむことが多かったが、決してリーダータイプではなく、ずる賢い威勢の良い不良にコントロールされていた。

 

俺は、彼と友達だった。彼のかんに触らなければ問題はないからだ。彼は高校へ進学したのは知っていたが、その後どうなったか今でもわからない。高校時代にも連絡をとるほどの友人関係ではなかった。つまり、彼と会うのは中学校の卒業式以来、7年ぶり。

 

私の心の叫びに応えるように、向井君は視線を持ち上げ、私の方を一瞥した。私と目が合ったが、私は表情何一つ変えずに、視線をそらした。一方で、私を発見した彼は、その視線と表情から、2つのものが感じ取られた。

 

彼が頓に示した2つの反応によって、私は彼から目を逸らしたんです。

 

彼の表情からは、「あっ!」という驚きとともに、口元が綻びて、表情に「懐かしさ」漂っているのが見えた。彼が見せた「懐かしさ」が1つ目の反応であった。

 

向井君の表情は、「懐かしさ」でいっぱいいっぱいになっている最中、彼の目は違ったことをしていた。その目は、瞳孔を開き、ただの一瞥が羨望の眼差しへと変わっていくのが、コンマ数秒でわかった。

 

なぜ、羨望の眼差しへと変化していったのか。それはホームに、袴姿の女子やきちんとした服装で両親と一緒に電車を待っている卒業生がホームにそこかしこにいたからである。私も例に漏れず、スーツ姿で、彼女から貰った金色のネクタイとハンカチ、そして手入れしたヒゲ姿だった。

 

私の服装と周り人たちの様子、そして3月ということを考慮して、恐らく向井君は「あいつも大学、卒業するんだ」という結論を導出したんだと思う。それが、彼の目から感じ取れた。

だが、その「羨望の眼差し」が辛かった。辛くて、俺が目を逸らすことになった一因である。

 

俺は、確かに大学を卒業をする。しかし、内定を断り、4月に何も待っていないんだ。多くの友達が、4月から新しい世界、辛い世界、楽しみな世界が待っているというのに、俺は何もない。

 

だからといって、ニートになる気も毛頭ない。インターンを探して経験を積みたいという気持ちで一杯だ。

 

だが、「日本社会のエスカレーターのシステム」から外れたのは確かだ。それが、恥ずかしいけど、人生に対して考えさせられる機会をくれたし、自分から種を蒔かないと何も起きないという状況に身が置けるのは、辛いかもしれないが、「能動的な」性格を手にするチャンスだと思っている。

 

でも、俺は向井君から向けられた「羨望の眼差し」を受けるに値する人間ではない、と思っている。下手したら、向井君よりも酷い状況にあるのに、卒業式を迎えるだけで、「凄い」という目で見られたくない。こんな気持ちでいっぱいだった。

 

俺は、それが耐えられなくて、目をそらした。そして、無表情のままで、彼の横を通り過ぎた。

 

俺がこんな気持ちになったのは、確かだが、電車に乗る頃には、全てを忘れていた。俺の性格で、一番凄いなと毎回思うのが、嫌な出来事、辛かった出来事、怖かった出来事、やらかした出来事を「本当に」忘れることだ。

 

この性格のおかげで、あまり恨みを持つことや妬みを持つことは少ない。しかし、「猛省」ができない、良くも悪くも。

 

私がこの経験で言いたいことは、羨望の眼差しっていうのは、間違ったタイミングで向けられると、「痛い」ということだ。

 

 

 

 

 

この記事は三月の終わり頃に書いたのですが、公開するのを忘れてしまい、今更ですけど、公開してみました。タイミングを外したのは、なんかもったいななって今痛感しています・・・

まぁ、明日には忘れているけどね笑

では次の記事で会いましょう!!!!