【書評】『ゴース・トボーイ』私たちは日常を「生きる」のを忘れている

こんにちは、神奈川の外国人です!

 

今日は『ゴースト・ボーイ 』についての書評を書いてみましたので、是非読んでみてください!もし、「生きること」の実感を味わえていないのであれば、この本を読んでみて下さい、世界、日常がより生き生き感じられますよ。また、植物状態にある人たちについて知りたい方にも、おすすめです!

 

これから書く書評は、タイトルにもあるように、健常者であるゆえに忘れる「生きる」についてです。私たちが自然と行う判断、コミュニケーション、意思表示、感情をあらわにすることが、いかに恵まれている環境なのかを、この本の主人公の半生を見ながら書いていきます。 

 

 

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地元の川の道です

本の概要:

 

12歳を迎えた1988年に、主人公のマーティンは未知の病に侵されました。その後、身体が使えず、口もきけず、車椅子生活を送るようになりました。長い年月をかけ、彼は徐々に意識を取り戻したが、周囲は依然として、昏睡状態にあると思っていた。しかし、ある介護士が、彼の意識に気づき、彼は回復への道を歩み始めた。しかし、その道のりには、いろんな困難が待っていました。だが、その困難を乗り越え、人生の女性と出会い、恋に落ち、結婚した。

 

 

正直私は、感動的な映画を観てもや本を読んでも、あんまりうるっとくるタイプの人間ではなく、むしろ冷静に読みながらどうして、そのような事態になったのかを観察することが好きです。しかし、初めて本を30ページほど読んで、ウルっときました。本の出だしから、彼の世界に引き込まれました。 

 

「正午だから、お父さんが迎えに来るまであと5時間もない。それはどんな日においても、とびきり輝やかしい瞬間だ。午後5時にお父さんが迎えに来てくれれば、ようやく介護施設をあとにできる。(中略) 

さあそろそろ、数え始めよう。秒積み重なって分になり、やがて時間に変わる。

数えていればきっとお父さんが着くまでの時間がちょっぴり短く感じられるから。」

 

彼は、ずっと寝たきりの状態で、遊ぶこともできず、見たくもないアニメが放映されているテレビの前に置かれ、お父さんの迎えまでの時間の経過を心の中で楽しむ、彼の姿を想像すると、一気に彼の世界に入り込みました。というのも、日本にきて間もない頃の幼稚園生の私を思い出しましたからです。

 

幼稚園生の私は訳のわからない言語が飛び交うところで遊びながら1日過ごしていました。私は、スペイン語の巻き舌で私の名前を呼んで、「来たよ!」という顔をするお母さんを見ることが一番の楽しみだった。ようやくお家に帰られるという気持ちで母親の元に走っていたのをこの文章で思い出しました

 

しかし、彼と私との決定的に異なる点がある。それは、子供ながらも私は自分の意思に沿った遊びや自分の描きたいことが出来ていた、ということだ。主人公は、自分の意思を伝えてくれる声もなく、一切使えない「抜け殻」の体で毎日を過ごしていたということが、どれほど、子どもにとり、辛く退屈なものかを考えると、心が悲しくなります。 

 

主人公のマーティンは、自己意識や意思、感情はしっかりとあったが、体は自分の意思や感情に呼応することがなかった。周りの人はマーティンの世話をするが、心の声はずっと無視される。介護施設の人たちにされるなら、まだいいが、一番を「見ていてくれる」はずの両親ことに父親にも無視される。それに怒りを覚えるマーティンは、次のように述べている。

 

「無になりきるしかない。そうしなければ、頭がおかしくなってしまうだろう。」

 

「無になりきる」ことが、マーティンが怒りを止める方法だと思うと、私が怒りを覚えるときに発する声量の高さ、壁を殴ること、大きく息を吐くこと、相手に私の全身で怒りを表現できること、言葉で私の怒りを伝えられること、 これら全てがいかに恵まれているのかが、理解できた。

 

おそらくこの私の記事を読んでいる方は、体や声を使って怒りを表現できることが「ごく普通のことだ」と思っているかもしれないし、それを当然のように実行する人もいるだろうが、もしそれができないと言われたら、声や身体を使う表現がいかに貴重なことかを認識すると思う。 私が健康的に、そして自然と怒りを表現できることに、神に感謝しないでいられない。

 

マーティンの世話は、当時の両親にとり、とても荷が重たいことだった。だがマーティンは容態は、寝たきりからほんのわずかだが、回復の兆しが見えた時、両親はAAC(補助代替コミュニケーション)という機器を購入し、単純な動作で、意志を少し表現できるようになった。 

 

しかし、母親は、目に見えない進捗具合に、希望を失い、恐怖に陥っていた。そして、その恐怖は毎日同じ家に同棲していた。マーティンを施設に送るべきと主張する母親、家族の一員として、そんなことができないと言う父親との間で、何度も喧嘩があった。こんな喧嘩があった時、母親はマーティンに次のことを言った。

「お母さんが、僕を見上げる。目に涙をいっぱいためて。「死になさいよ」。

ぼくをみながらゆっくりと言った。「死んでちょうだい」(中略) ぼくはぼう然とお母さんを見つめる。

お母さんは起き上がると、静かな部屋にぼくを残して出て行った。

あの日、言われた通りにしたかった。」

 

多分、多くの人は、息子や娘が生まれると、彼/彼女の誕生は素晴らしく綺麗な旅になると思っている。そう、息子や娘との人生はベネチアへの旅になると思っている。ベネチアへの旅に備えて、旅行雑誌を見て、素晴らしい旅を計画している。しかし、ベネチアの行きの飛行機は、たまに不毛な地に着陸したり、酷い天候に見舞われる。そして、多くの父親と母親は、思うだろう、こんなはずじゃなかったって。そして、ベネチアに行けなかったことを悔やみながら、息子や娘と住んでいる。

 

マーティンの母親は、マーティンがが12歳の頃までは順調にベネチア行きの飛行機に乗っていると思っていた。しかし、着陸したところは、ベネチアとは真反対の世界の土地だった。この事実に、精神的に耐えられなく、改善が見えない息子の容態に、恐怖を覚え、恐怖に支配された。 

 

恐怖の源泉である、マーティンを人生から排除しようとする母親の言動には、軽蔑したり、怒りを感じたが、同情もした。

 

俺は同じ立場にいたら、本当に同じことを言わないのか?と自問すると、同情の念がどんどん強くなった。

 

「あの日、言われた通りにしたかった。」

 

と言う、マーティンのことを想像すると、心が悲しみでいっぱいになった。

マーティンは、もちろんショックだっただろうけど、お母さんがあの言葉を発する前に、「ぼくはよくなっているよ、安心して!」と悲しむお母さんに、どれだけ言いたかったのだろう。この一言があれば、おそらく母親は元気付けられた思う。しかし、そんな一声をも発生ない状況をを考えると、深いため息しか出ない。また、マーティンは悲しみ苦しんでいる母親に、どれだけ、抱きしめたかったのか。そんな単純なこともできない体。

 

父親と母親に恥ずかしながらも、大切に思っていると伝えられること、ハグできること、これがどれだけ尊いものか、マーティンのこのエピソードで再認識させられる。思いを伝えられる声が、マーティンにないことを知ると、何気ない日常の価値に気づくし、素晴らしいものだとも思う。

マーティンは、別のところで、何が人間と動物との間に一線を画していることを説明している。

 

「もうおなかいっぱい」とか「お風呂のお湯が熱すぎる」とか「愛している」と伝える声を持たないことが、何よりも自分を人間らしくない気分にさせていた。言葉や会話によって、人は他の動物と一線を画しているのだ。

 

このような悲しい時期を過ごしていたマーティンだが、容態は植物状態から結構回復した。

20代後半のマーティンはAAC(補助代替コミュニケーション)によって、コミュニケーションも取れるようになり、医療センターで仕事をし始めたり、彼の進歩が注目されスピーチもしたりした。そんな彼は、コミュニケーションのが取れるようになったことで、他の男性同様に、女性を恋愛関係が持てると思っていた。

 

彼は、近寄ってくる女性や良好な関係にある女性と出かけたりすると、今度こそはと、女性に淡い希望を抱いていたが、多くの女性はすでに彼氏がいたり、マーティンとは恋愛関係になれないと言う人がいた。しかし、マーティンは人生の女性を見つけます。

 

本の最終パートは、結婚相手との話が書かれています。このパートは、とてもほっこり、幸せな気分にしてくれます。

このパートでも、私は彼女に、声で「愛している」とか「好きだよ」と伝えられる喜びを教えてくれます。好きなときに、ハグや手を繋げることがどれだけ素晴らしい奇跡なのかを思い出します。

 

この本を読んでいると、私は、生活を「生きているのか」という疑問がずっと頭にありました。怒り、痛み、悲しみ、楽しみ、幸せ、希望、退屈さ、優しさ、戸惑い、ドキドキ、恥ずかしさ、恐怖、孤独、同情、心配、冒、などの感情を自然と表現できることの素晴らしさを完全に忘れているということに終始気づかされました。 

 

あまりにも、早い毎日を送って、人間的な振る舞い・表現を「普通のこと」として捉えて生きているが、もしそれができなくなると考えると、やはりこの素晴らしい体験をもっと味わいたいという気持ちになる。そう長くない、命、いつ、病に落ちるかわからない脆弱な体であることを忘れている。 

 

ましてや、自分の意志が反映されるのが普通だと思っているが、好きなときに、好きなものを、好きな熱さ加減で食べられるということが、いつ奪われてもおかしくない。でも奪われていないことに、神に感謝したくなる。このような素晴らしい気持ちにさせてくれる自伝です 。 

 

 

もし、「生きている」という実感を味わいたいなら、読書しながら、人生を「生きてください」オススメです!


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では次の記事で会いましょう!!!!