『ボクたちはみんな大人になれなかった』感想:「好きな人の全てが正義になる。」

こんにちは、今日は『ボクたちはみんな大人になれなかった』という本の感想を書いてみました。

恋愛小説を読むのは、『プリズム』以来であり、恋愛小説というカテゴリーでは二冊目でした。

それにしても、恋愛モノを読むのって、感情の起伏が激しい!

 

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早速ですが、本のあらすじです。

17年前、渋谷。大好きだった彼女は別れ際、「今度、CD持ってくるね」と言った。それがボクたちの最終回になった。17年後、満員電車。43歳になったボクは、人波に飲まれて、知らないうちにフェイスブックの「友達申請」を送信してしまっていた。あの最愛の彼女に。

 

とっくに大人になった今になって、夢もない、金もない、手に職もない、二度と戻りたくなかったはずの“あの頃"が、なぜか最強に輝いて見える。ただ、「自分よりも好きになってしまった人」がいただけなのに……各界で“オトナ泣き"続出、web連載中からアクセスが殺到した異色のラブストーリ。

 

アマゾン商品説明欄より

 

読後に芽生えた様々な感情を率直に書いてみた

 

どう始めたら良いのかわからないけど、この本を読み終えた後に感じた感情は、今の初恋の彼女(=初めてドキドキさせてくれた/ときめきを感じさせてくれた)と横にいたいと言う思いだけ。

 

彼女の言動に耳を傾けて、彼女の何気ない希望に耳を貸して、叶えてあげたい。だって結局はそれが今の俺にとっての最大の幸福だし、”正義”だもん。そして、彼女との何気ない会話をもっと脳みそに染み込ませたい。

 

たった一度の時間をもっと彼女と過ごしたい。たとえ彼女が「私は可愛くない」と思っていても、それでも愛おしい。そしてその愛おしさが俺の正義なんだ。

彼女の男勝りなっぽい姿勢も、たまらなく愛おしい。だから、彼女を手放したくない。

そしてまだ、初恋の女性と彼氏彼女でいられることが嬉しい!

やはり、何度恋愛しようが、初恋の彼女がくれた高揚感や様々な感情には、彼女の名前が刻み込まれている。

 

この小説の読後は、こんな思いにさせてくれた。

 

恋愛小説を読むことの一番良いところ=実体験と重ね合うところ

やっぱり、恋愛小説を読むことの一番良いことって、著者の描いた経験と体験を自分のものと重なり合えることだと思う。

 

この小説を読んでいると、一言、1シーンが知らず知らず、自分を「記憶の世界」に誘っていく。そして記憶が呼び戻され、その記憶が自然と心の中で「神聖化」されていく。

これが恋愛小説がくれる読書体験だと思う。だから、余計ストーリーに感情移入し、読後に「愛したくなる思い」と小説のようになってはいけないという「自戒の念」が芽生え、感情がいっぱい溢れ出すのだと思う。その表れが1番の上の文。

 

でも、嫌いじゃないかもこういう読書体験・・・

 

心に刺さった文:「ボクにとって、脳が痺れるような・・」

 

”好きな人”。それが衝動的に(彼女の口から)出た言葉だとしても、それが後々撤回されたとしても、ボクにとって、脳が痺れるような言葉だった。

 

この文を読んだ時、自分もこんな体験があったことを思い出した。俺の脳いや、体全体が痺れたことを思い出した。

俺にとっての「衝撃的な一言」は言葉ではなく、彼女と付き合う前に、初めて「手を繋いだこと」だった。手を繋ぐことの衝撃もあったが、瞬時に俺の脳は、「この手を離したくない」と瞬時に思ったことは今でも忘れられない。

 

あの体験は今後どんな綺麗な女性と付き合っても、その体験の名称は「初恋の彼女の名前」であることには違いない。そして、消されることはないだろうな。たとえ、その体験を忘れても。

  

こんな記憶が再び呼び出されるのは、ただただ嬉しい。その記憶が掛け替えのない体験だと再認識させてくれることがとても嬉しい。なぜなら、この大切さを誰もあまり口にしないし、教えてくれないからだ。 

 

心に刺さった文:「彼女との距離がゼロになったのは・・」

 

この文を読んだ時に、彼女との初めての「ゼロの距離」を思い出した。 

 

一番初めに彼女との距離がゼロになったのは、うつ伏せのボクの上に彼女が乗っかってきたこの時だった。

 

 

まぁ、彼女と俺のゼロ距離を書くのは気がひけるから書かないが、「あの」ゼロ距離の時の記憶が生々しく、且つ綺麗な記憶として、鮮明に思い出された。

 

そんな記憶を共有している彼女を愛おしく思えないはずがない、もっと彼女のことで記憶を豊かなものにしたいと、心は力一杯思う。

 

 

心に刺さった文:「代わりがきかなかった人が彼女だった」

この文が、俺を今の初恋の彼女をより大切にしようと思うように仕向けた。

 

これは絶望であり希望でもあるのだけど、人の代わりはいる。悲しいかな誰がいなくなっても世界は大丈夫だ。あの人みたいな人は現れないと人はすぐに言うけれど、二度との現れなくても正直、世界はなんの支障もなく朝が来て夜を迎える。

 

ただ振り返っても唯一ひとり、代わりがきかなかった人が彼女だった。始まった時は軽い気持ちだった。ほとんどの薬物患者がそうであるように、何の気なしに始めてしまい、気づいた時には彼女がいないともうダメだった。彼女に教えられたのは、心の傷ってやつにもいろいろあって、時が癒してくれる傷と、膿のようにずっと心の底に居着く傷があるということだった。

 

この語り口調と、彼の記憶の回想が、他人事のように思えられなくなる。

彼(主人公)が彼女との記憶を思い出しながら、彼は「あの時の恋人」を超えるような女性はいなったと、告白している。

 

そんな心情の吐露を、俺は見逃すことができないし、これは、「あの時の彼女を超えるような女性はいないよ」という警告のようにしか見えない。

しかもこの警告をさらに、強化する一文が帯に書かれている。

 

「あのころの恋人より、好きな人に会えましたか?」

 

今の初恋の彼女より、替えの効かない女性が出てくることはないと思うようになってくる。その結果が、この愛情の爆発なのではないかな。。。

 

 

生きたこともない時代にリアリティーを感じ、懐かしむ。おかしい!

この本のストーリーは、現代の2016年と1999年以前の時代が描かれている。

 

だが、面白いことに、1999年代を意識をもって生きたこともなし、記憶もない22歳の俺が懐かしさを覚えるし、その情景描写には、嘘が混じっていると思えないほど、リアリティーに富んでいるように思う。

 

この感覚がなぜ生まれるのか、どんな描写の表現が、俺に知らない時代を懐かしませているのかがわからない。これが少し腹たつ。

 

だが、この次の描写には、とてもリアリティーを感じれたし、自分も経験したことが書かれていた。

 

この時間の中目黒方面のホームは空いていた。さっきの自販機で、温かいほうじ茶を買わなかったことを少し後悔している。女優になりたいと言ったあの女のLINEを既読にした。「ねぇ、努力すれば、夢って叶うのかな?」とだけ書かれていた。日比谷線のが轟音をあげながらホームに滑り込んでくる。向こう側で、若い母親が幼い子どもを抱きあげる瞬間を見た。ボクは「その字質問は、ナポリタンは作れるのか?と一緒だと思う」と返信し、地下鉄に乗り込む。

 

大した特徴も感じないこの文章、そして、重大な進展を導く文章でもないのに、なぜかとてもリアリティーを感じた。でもこのリアリティーを演出している数々の演者(=言葉)のひとりを見つけ出すことができた。

 

その演者は、こいつだった。

「向こう側で、若い母親が幼い子どもを抱きあげる瞬間を見た」

 

この文章は、ホームで待っている乗客の目線の動きを言語化している。だがこんな些細な(みんなが体験している)事実は脳によって毎夜消されるが、だが確かに、経験している。

この何気ない、目の動きを言語化しているような表現が小さく小さく隠れ、目にあまり映らないが、全体的に「懐かしさ」と「リアリティー」を醸し出している。

これが、余計に感情移入を促してくる。

 

 

 

 

『ぼくたちはみんな大人になれなかった』のなかで興味深い視点①

 

普通じゃない自分を一生懸命目指していた。今考えれば、普通に生きるための根気がなく、努力もしたくなかっただけ。

 

 

実は俺も、変わったことがしたいといつも心の中で思っている。

声だかにあまりしないし、なんか目立ちたい欲だと思っていた。しかし、むしろ”普通”がうまくやりこなせないから、この願望がうまれるのかな?それとも、「普通」染まることに努力していないだけなのかな?

 

 

『ぼくたちはみんな大人になれなかった』のなかで面白い視点②

 

男女のカップルは、お互いに補い、助け合うというイメージがある。

それこそ、俺も男女は凹凸というシンプルな図式に表されると思っていた。しかし、そんな見方に対して、主人公は新たな見方を紹介している。

 

それが・・・

「ボクが凸で、君凹。そんな単純なパズルは世の中にはない。ボクが△で、君は★だったりする。カチッと合わないそのイビツさを笑うことができていたら、ボクたちは今でも一緒にいられたのかもしれない。」

 

つまり、私たちはお互いに補うための形を、「本来」していない。私たちは本来そんな簡単な形をしていない。人それぞれ異なった図形だ。たとえば、△とか★とか□とか◆とか

 

もし、「男女2人」は補い合う凹凸という合致するピースだと捉えているのであれば、それはむしろ相手を「自分を支える為の型」にはめようとしており、相互理解と気遣いがかけていることの証拠なのではないかな。

 

むしろ、お互い支え合うことを前提にしていない◇と▽という型だと思ったら、より相手のことを考えた行動ができるのではないか。

 

はぁ、彼女が恋しいよ〜早く帰国してくれ・・・

 

 

  

 

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