『春にして、君を離れ』感想:「愛する」ことの3つのワナ
こんにちは、今日は『春にして、君を離れ』という本の感想を書いていきます!
愛することの危険性ってなに?
この問いを答えを知りたいのであれば、オススメします。
「愛する」ことは、私たち人間界では、絶対的な地位を獲得している。
だが、本書を読んでいると、こんな問いかけが生まれた。
愛することにはワナがある。愛って諸刃の剣・・・?
ワナって何?なにを意味しているの?
そして、そのワナの被害者って誰?
個人的には、この写真が主人公のジョーンが砂漠にいた時の様子を表していると思う・・・
この本は、「ブクログ」というサイトで、オススメされて、購入しました。正直にいうと、この本は最初があまりにも退屈だったから、二回も読むことを断念した。
しかし、170ページ以降この本の真骨頂が姿を見せる。しかし、その姿は悲しいものだが、とても考えさせられる
- 読んで気がついた「愛する」ことの3つのワナ:
- あらすじ
- 愛に勝るものとは?
- レールが敷かれた人生は、「愛情」と「普通は~」によって作られた
- 「愛すること」は、相手を「理解する」ことでもなく、「知ること」でもない
- 最後に
読んで気がついた「愛する」ことの3つのワナ:
・愛によって、相手の「選択して生きる」という権利を踏みにじる可能性がある
例: やりたいことをやらせない(あるいは本書のストーリー)
・「愛する」ことは、相手を「理解する」ことではなく、「知ること」でもない
例:コトバンクで「愛する」の意味で確認下さい。(若くは本書のストーリー)
・「普通」という概念の中で「愛情」に基づいて、“最善”を提示することは、相手にとって、最適解ではない
例:レールの敷かれた人生
これから本書に出てくる、「愛情」という感情の罠をもう少し説明していく。
あらすじ
「1930年代。地方弁護士の夫との間に1男2女に恵まれ、よき妻・よき母であると自負し満足している主人公ジョーン・スカダモアは、結婚してバグダッドにいる末娘(次女)の急病を見舞った帰りの一人旅の途上にある。
荒天が一帯を襲い、交通網は寸断される。列車の来るあてのないまま、砂漠のただなかにあるトルコ国境の駅の鉄道宿泊所(レストハウス)に、旅行者としてはただ一人幾日もとどまることを余儀なくされる。何もすることがなくなった彼女は、自分の来し方を回想する。やがて彼女は、自分の家族や人生についての自分の認識に疑念を抱き、今まで気づかなかった真実に気づく。」
愛に勝るものとは?
愛によって、相手(愛を受ける人)の持っている「選択して生きる」という権利を踏みにじる可能性がある。
この本を読めば、我々の「愛が」どのように相手を知らず知らず、しかも「最愛の人」の幸せを踏みにじることができるのかが、知れる。
是が非でも、この一文を読んで欲しい!!ちょい長いけど
「ぼくははっきりといっておく、エイヴラル、自分の望む仕事につけない男ー 自分の天職につけない男は、男であって男ではないと。ぼくは確言する。もしきみがルパート・カーギルを彼の仕事から引き離し、その仕事の継続を不可能にさせるならば、他日きみは必ず、きみの愛する男が不幸せな、失意の状態に喘ぐのを見て、どうしようもなく苦しまねばならないとね。きみは彼が時ならずして老いこみ、人生に倦み疲れ、希望を失って生ける屍のような生活を送るのを見るだろう。きみがきみの愛が、いや、およそ女性の愛にして、その埋め合わせになるほどすばらしいものだと思いあがるなら、ぼくははっきりいうよ、きみは途方もないセンチメンタルな愚か者だと。」
『春にして、君を離れ』190-191ページより引用
こんなドストレートな言葉は、耳痛くなる。
引用した文章は、時代背景的には男が主語であるが、この文章の主語は、現在に照らし合わせると、それは、男ではなく「男女」となる。現在は、男性陣が相手の女性を応援することを学ばないといけないのだと思う。
少し、話を変えて・・・ 愛に勝るもってなに?
俺らは、愛に勝るものはないと、そして相手に愛されることが最上の幸せだと、「思っている」。
だが、誰かに愛されるているからといって、それだけで幸せなのかというと、そうではない。私たちは受ける愛によって生きているわけでもない。
我々には、「好きなもの」があるんだ。そして、「好きなもの」が与えてくれるものには、活力、楽しみ、希望、熱中、幸せ、生きがいある。
だからといって、愛を否定すること、遠慮したいと思う人はいないだろう。しかし、愛はバブルのようなもの、いつかははじける。だから、私たちはずっと「愛」だけでは食っていけない。
愛する人には「好きなもの」があり、それは時には愛に勝るものだし、愛より長期間続くことがあり得ることを認める必要がある。生きがいもこの世を生きる上で、重要なものの一つ。それを選択することを奪ってはならない。
肝に銘じておきます。
俺の彼女には、やりたいことをどしどし応援するぞ!
レールが敷かれた人生は、「愛情」と「普通は~」によって作られた
主人公のジョーンは自分のせいで、旦那が「好きなもの」を我慢させて、そしてそれが旦那を苦しめていたということに思い至る。
完璧な人生設計、よきお母さん、よき奥さんとして生きてきたと思っていたが、そんな自分が、最愛の旦那にこんなこと👇言わせたのかと、考えていると、やるせない気持ちとなった。
「自分の望む仕事につけない男は、男であって、男ではない」
と・・・
旦那のこの発言によって罪悪感に苛まれそうになった時に、主人公はこんなことを言う。
「良かれと思ってしたことだった。せめてわたしだけでも現実的な考えかたをしなければ、そう思ったからだ。何よりも子どもたちのことを考えなければならなかったし、利己的な動機からではまったくなかったのだ。
けれども激しく、沸き起こった自己弁護の声は、たちまちにして、かき消された。
すべてはわたしの自分本位の考えからではなかったか、とジョーンは、思い返していた。わたし自身が農場で暮らしたくなかった、それが真相ではないのか?子どもたちに最上のものを与えたいと思ったからというが、最上のものとはいったい何だろう?」
『春にして、君を離れ』268ページより引用
そう、彼女は「良かれと思って」、「現実的な考え方」に則って、「子どもたちに最上のものを与えたい」と考え、お母さんとして行動した。
「愛情」という崇高な感情のもとで、主人公は我が子の為、我が家族の為、を思って様々な決断をした。
これは、批判し難いし、批判することは酷だ、とも思う。でも、ためを思って下した決断が結果として、押しつけることになった。
何が悪いの??
「押し付ける」のは、良くないけど「ため」思って判断することの
いいじゃん!
と思うかも知れないが、ここには、「普通は〜」というトラップがある。
主人公は「普通」と言う概念の中で、もっもと「幸せそうな生き方」をする為に生きていた。
「普通は~」、「みんなは~」、「一般的には~」という縛られた考え方のもとで、「最上のもの」を与えたいと思う、親は沢山居る。
それの最たる例が、「レールが敷かれた人生」だ。自分の息子を理解、知ることを諦め、息子を世間の言う「幸せ像」という定型にハメようとする。
だが、その結果はどうなったのか?
今や、転職サイト、就活サイトには、「レールが敷かれた人生」の窮屈さを告発する文章が何千と存在している。
主人公のジョーンは、母親として、息子たちの将来を案じてきたが、肝心な「彼らがなにが好きなのか?」、「なにをしたいのか?」という問いに、答えられなくなっていた。
つまり、自分の子どもや旦那にとっての、最適解とはなにか?という考えることを放棄して、「みんなが」、「一般的には~」というわかりやすく、容易い方に人間は流れていく。
彼らをいち人間として向き合わなかった結果のしわ寄せが、最終的には、彼女と、彼女の息子たちを苦しめることとなった。
「愛すること」は、相手を「理解する」ことでもなく、「知ること」でもない
「愛すること」は、相手を「理解する」ことでもなく、「知ること」でもない。
「愛すること」と「理解する」ことはセットだと考えているが、そうではない。
ましてや、この世は諸行無常である。人間の情報なんか数ヶ月で変化する。
向き合うことをしないと、相手の特性、好きなものを知ることができないため、最適解を出すこともできなくなる。
でも私たちは、相手の事をすでに知っていると「思い込んでいる」。そして、我が子に対しては、よりこの思い込みは大きくなる上に、私(親)には彼(息子)の為になるものを選ばないといけない(義務)と考えている。
結果として、子どもと親との解離が大きくなる一方。
教育のあり方や、子どもたちとの向き合い方と問いかけてくる小説でもある。
最後に
この本は、俺にとってかなり厳しいものだった。正直半分ぐらい過ぎてようやく、おや?なんか面白いかも・・・っていう感じだった。でもそれまでが苦痛だった。しかも、主人公のジョーンと相容れない人だと、読んでいくうちにわかると、余計ストーリーを読み進めるのが辛い。
でも、本当に最後は、考えさせられた。愛によって、相手の人生を踏みにじることができるんだと、怖い思いとこんなことはしてしまっていけないという自戒の念が生まれた。
人間がいかに真実に向き合うのが怖いのか、そして避けるのかが、最後のシーンに如実にでている。最初は退屈でありながら、最後はとても考えさせられる良書。
まぁ、自分の価値観を変えてみたいと思う方には、一読の価値は絶対にある。でも、かなり不思議な本だよ。お勧めはしづらい、だってかなり退屈なものだから・・・・
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